会員リレートーク

1975卒
安東 茂光さん
高血圧に悩まされ、大腸ポリープを取り、近々白内障の手術を控える身。トシをとったと自分でも思う。昔はこうではなかった。「なうい」わけではないが、「ヤング」ではあった。あの頃が懐かしい。みんなどうしていることやら。近況が知りたくて、母校のホームページに来た。そして、この稿を書くことになった。来し方をあらためて振り返るのも悪くはなかろうと。
子どもの頃から大の野球好き。スポーツ新聞の記者になって色んな選手と関わりたいと思っていた。大卒の資格は必須であろう。そのためには臼杵高校に入らねばならない。 旧制臼杵中学、市内で唯一の普通科校。 当時は年に1人か2人、東大に送り出すほどの進学校だった(後輩諸君、ホントだよ)。自分なりに一生懸命勉強して、難関をクリアした。マラソンの有森選手より先に、自分で自分をたっぷり褒めてあげた。
2年の時にクラス対抗の「壁新聞コンクール」があった。「戦争と平和」みたいなテーマだった。新聞記者志望の私が奮い立たないはずはない。作成チームの責任者になり、1メートル以上ある紙に堂々とした(?)作品を仕上げた。父兄の戦争体験をメインに据え、平和とは何かを問う内容だった。先生方の審査で1位賞に。他のクラスの作品と見比べ「当然だな」と一人ごちた。3年間で得た、唯一とも言える勲章だ。
高校の勉強は大変だった。特に英語。何を書いているのか、さっぱり分からない。文法、作文は言うに及ばず。単語も覚えるより忘れる方が早かった。記者になりたいという思いは持ち続けていたが、いかんせんこれでは、という成績。だが、いくら考えても、なりたい職業はスポーツ新聞の記者しかなかった。とりあえず大学へ行こう。スポーツ紙がある東京か大阪へ。そうでないと話が前に進まない。一浪の末、なんとか関西大学に受かった。そこから記者につながる道が急に開けるのだから、人生は面白い。
大学でマスコミ研究会というクラブに入ったのは、かの業界のなんたるかを知りたいと思ったから。本丸に少しでも近づかなれば、何も見えるはずはなかろうと。入部早々に、ある先輩が「俺、もうじきサンケイスポーツのバイト辞めるんやが、代わりにやるやつおらんか」と言った。「やります!」。言うより先に手を挙げていた。「仕送りはしない。自分で稼げ」と言われていたので、早晩バイトはせざるをえなかった。それが憧れのスポーツ新聞社なら言うことはない。先輩の言葉が神の啓示のように思えた。
サンスポでは「原稿取り」をした。記者が取材先から電話で読み上げる記事を、原稿用紙に書き写す作業だ。 ファックスもメールもない時代、送稿する手段は電話しかなかった。思い出すのは、どの記者も文章が巧みだったこと。 これがプロなんだと思った。 「中天高く満月が、ここへ打てと呼んでいた」 で始まる阪神担当記者の名文は、岡田彰布が現役時代に放ったプロ1号本塁打の記事。近鉄を愛した記者の優勝決定時の名原稿は、途中で涙声になるので何度も聞き返さなければならなかったが…。
卒業時に「このまま残れ」と言われ、野球担当記者として採用された。子供の頃からの夢が現実になったのだ。初めて書いた記事をデスクに褒められ、自信がついた。名文を毎日書き写しているうちに、自分でもそこそこ書けるようになっていたらしい。阪神担当時代の1985年には、日本一フィーバーの渦中にいた。バース、掛布、岡田のバックスクリーン3連発も球場の記者席で見た。時事通信社に移ってからも、担当した西武が2度日本一に。人より多少、恵まれた記者生活であったようだ。
いくつかの幸運があって、今に至る。だがその幸運も、記者になりたいという強い思いがあればこそ。臼杵高校に入れたのも、大学に受かったのもそうだ。マスコミを研究するクラブに入らなければ、あの先輩には出会えなかった。願えば叶う、などと言う気は毛頭ない。だが、願わなければ手が届くはずのものさえ取り損ない、いつの間にか見失ってしまう。吉田義男(元阪神)、上田利治(元阪急)、穴吹義雄(元南海)…。夢にまで見たプロ野球の世界で、多くの監督に、野球とは何か、人生とは何かを教えてもらった。そして、臼杵高校の大先輩、和田博実さん(元西鉄捕手、阪神二軍監督)。初めて挨拶した時、「俺の後輩? そうかそうか」と笑顔で迎えていただいた。本当に多くの方々にお世話になった。
時事通信社で一時期、外電のスポーツ記事(ロイターなど外国通信社から届く英文記事)を訳す仕事もした。「英語、できません」とも言えず、辞書と首っ引きでやったが、案の定、誤訳が多いので早々にお役御免となった。あの頃、もう少し英語を勉強していれば…。 臼杵高校に残した、一番大きな「悔い」である。
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