書籍紹介のトピック詳細

半田隆夫氏(4回生)(5)
2009年01月30日 10:47 運営スタッフ 大分県立大分舞鶴高等学校同窓会(大分県)

半田隆夫氏(4回生)

H20年の同窓のつどいで「宮様となまづ」のテーマで講演をされた4回生の半田隆夫氏。

半田氏は、今も九州共立大学・福岡女学院大学などの教壇に立って、学生の教育にあたられているほか、「なまづ倶楽部」や「ふるさと歴史講座」「薩摩街道を歩く会」などの指導で、その心温まる人柄が地域の多くの人々に親しまれています。

このたびH20.12.1に発行の 『薩摩から江戸へ −篤姫の辿った道− 』 は、NHK大河ドラマが完了間際のことゆえ、大変時宜を得たものと各新聞に取り上げられ、大分合同新聞や朝日新聞にも掲載されました。

120冊に上る著書から、この『薩摩から江戸へ −篤姫の辿った道− 』について、同じ4回生の方から情報が寄せられましたのでご紹介いたします。

2009年01月30日 11:07 
運営スタッフ

NHK大河ドラマの主人公、篤姫(1835〜83)が将軍に嫁ぐため鹿児島から江戸に向かったルートは海路ではなく、陸路−−。
福岡県柳川市に住む九州共立大学経済学部講師半田隆夫さん(70、近世交通史)が現地調査をもとに新説をまとめ、『薩摩から江戸へ―篤姫の辿った道―』(海鳥社)を出版した。
これまで篤姫が岡山県矢掛町に宿泊したことを示す古文書が見つかっているが、新たに10ヵ所の宿泊・休憩所を確認し、裏付けた。

大河ドラマの原作となった宮尾登美子さんの小説『天璋院篤姫』では、篤姫一行は宮崎県の都井岬近くを出港し、同県細島港、山口県下関などを経て、瀬戸内海を通り、大阪に到着している。
ドラマでもコースを一部変更したものの「海路説」を踏襲した。

半田さんがこの説に疑問を抱いたのは、今年1月、熊本県南関町の子ども向け町史の執筆のため資料の整理をしていたとき。
地元の有力者の1853(嘉永6)年の日記の中に「8月30日、薩州御姫様九ツ前(正午)御着。九ツ半(午後1時)御立」との記述を見つけたのがきっかけだ。
「薩州御姫様」とは薩摩島津家の篤姫のことで、篤姫の一行259名は、同21日に鹿児島氏を出発しており、日数が合う。

NHKドラマで「海路説」を放映した3月ごろから本格的に調べ、「薩州御息女様」(篤姫)が熊本市の茶屋で8月29日に休息し、お茶菓子と柿、スイカのもてなしを受け、御礼に金子二百疋(4万円相当)を支払ったという古文書も見つけた。

さらに、久留米、筑紫野両市から岡山県矢掛町、滋賀県草津市、愛知県豊橋市まで足を延ばし、資料館や図書館などで篤姫の宿泊・休憩を示す記録15点を発見。
宿場などを実際に訪ね、5月ごろまでにルートを確かめたという。

半田さんは
「島津氏の参勤コースは最初は海路が多かったが、黒船の来襲など周辺の緊張が高まるにつれて、陸路をとることが多くなった。
まして将軍家に嫁入りする篤姫の場合、安全第一に陸路を選んだと思う。」
と話している。

NHKは、「大河ドラマ篤姫」のホームページで視聴者の質問に
「実際は陸路だったようです。しかし、ドラマは原作の設定を生かしてあえて海路としました。」
と答えている。

H20.12.31 朝日新聞朝刊より

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2009年01月30日 11:16 
運営スタッフ

この『薩摩から江戸へ―篤姫の辿った道―』(海鳥社)の“はしがき”に、
「宮尾登美子の『天璋院篤姫』は小説であり、文学の香りが高い作品ですから、篤姫の江戸参府コースが<海路+木曽路>であっても構いません。
また、NHKの大河ドラマも、原作を基底に据えた脚本ですので<海路+東海道>であってもよいのです。
ただ、NHK大河ドラマは視聴者への影響力が強いのです。
篤姫の江戸参府の実像はどうであったのか、市井の一歴史家の戯れとして、史料に基づく史実に、できるだけ近づきたいと思ったのです。」
と記しています。

彼の温かい人柄を偲ばせると同時に、研究者としての好奇心、探究心を如実に表すものと、その内容に期待が高まりワクワクしてきます。

同氏とは、三年生の時に同じクラスで席を前後に並べた仲で、日頃からの活躍を誇りに思っている一人として、著書を同窓生各位にご紹介していただければと強く望んでいます。

ちなみに半田君のお父上(故人)は 元大分大学の歴史学の教授。
3年生の担任、染矢多喜男先生(ご健在)も歴史の先生。
九大文学部で歴史を専攻されたのも多分お二方の影響が大きかったと思います。

(寄稿主からのメッセージ)

2009年01月30日 11:19 
運営スタッフ

ちなみに、『薩摩から江戸へ―篤姫の辿った道―』は海鳥社の出版で、1,600円+税です。

以下、ご参考まで

amazon→ http://www.amazon.co.jp/薩摩から江戸へ―篤姫の辿った道-半田-隆夫/dp/4874157041

楽天BOOKS→ http://item.rakuten.co.jp/book/5925109/


2009年02月03日 14:50 
運営スタッフ


朝日新聞webサイト

http://www.asahi.com/showbiz/tv_radio/SEB200812300018.html


西日本新聞webサイト

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/64125



2009年02月13日 16:40 
運営スタッフ

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/auther/20090202/20090202_0001.shtml

偶然、天璋院(てんしょういん)篤姫にかかわる古文書を見つけた。昨年初め、女性の生き方を考えさせられると視聴者から多くの支持を得たNHK大河ドラマ「篤姫」の放映が始まったころだ。

 「歴史を正しく子どもたちに伝えたい」。そんな気持ちで熊本県南関町から引き受けた子ども向け町史「まちのあゆみ ふるさと南関」の執筆。整理していた史料に篤姫が江戸に上る際の記述があった。宿場町だった南関の木下助之(すけゆき)が書いた嘉永6(1853)年8月の日記に「30日薩州中将殿息女昼休」とあり、篤姫が南関御茶屋で昼食と休息をとったことを示していた。

 ドラマで、篤姫は鹿児島から大阪まで海路を通り、江戸に向かう。宮尾登美子さんの原作「天璋院篤姫」に基づく。ところが、篤姫は南関で休息している。「海路説はおかしいと思いました。ほかの史料をいろいろ調べた結果、陸路を裏付ける記述が数多く残っており、篤姫は九州路を北上したと確信したのです」

 熊本市の商人堀内家の「記録控」は、茶屋で休む篤姫を菓子やスイカでもてなしたと伝えている。鹿児島県出水市にある島津家の菩提(ぼだい)寺「感応寺」近くの濱田家に残る掛け軸の裏には「篤姫様」と名前も登場する。調査した史料は11カ所、15点。こうした証拠を丹念に追った様子を本書で紹介している。

 「篤姫の江戸参府の実像はどうであったのか、市井の一歴史家の戯れとして、史料に基づく史実に、できるだけ近づきたいと思った」。前書き一節には、地域の歴史を正しく伝えねばならないという責任感が強く表れている。

 大分県中津市生まれ。日本史の大学教授だった父が残したたくさんの書物を生かしたいと思ったという。伝習館高校(福岡県柳川市)の教壇に立っていた20代後半に、柳河藩の古文書を復刻した「旧柳河藩誌」が著作の第1号。以後、福岡県史や大分県史などの執筆に加わり、本書はちょうど120冊目に当たる。

年3冊のペースで書く原稿はすべて鉛筆の手書き。九州共立大などで教える合間を縫って、資料収集に出掛け、写真も撮影する。「人がいかに生きたか、史料から多くを学ぶことができる」。知的欲求はいささかも衰えない。
70歳。柳川市在住。


 (青木忠興)

 (海鳥社・1680円)

=2009/02/01付 西日本新聞朝刊=

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